今日も世界の片隅で

しばしの英国暮らし。地域社会とチャリティについて肌感覚で感じたこと。

良いコミュニティ

子が親の行動を真似るように

 

良いコミュニティの集いは、

 

スタッフが全体の様子に気を配り、新しく来た人に声を掛けるように、常連さんもまた新しく来た人に話しかけ、自然な形で歓迎を示していることに気がついた。

 

’私、ここに居ていいんだ。もう一度来てみようかな。’

’ここに来るといつも暖かく迎え入れられる。ここは私の居場所の一つ’

’私もここの1人として自分のできることで何か貢献したい’

 

人の自由な出入りのあるグループで、要所要所で調整をするスッタフはいる。だけど大きな流れを作っているのは、スタッフ、ボランティア、参加者全体が持っているグループに対する主体的な気持ち、そしてそこから生まれる交流や行動ではないかと思った。

 

’人は何かやれと言われてもなかなか行動に移せない、けれど自分から思いついたことは喜んでやる’とカーネーギーは言う。

スタッフは、折々に、このグループが大切な集まりであること、参加メンバーへの感謝を全体の前で語っている。

会の前半には、その時々に参加者かスタッフが何かみんなの前でテーマを持った話をして、それから、他の人も今週あった良いことを自由に発言する機会が設けられる。そして、どちらも話した後にポジティブなフィードバックを他者から受ける。

その後の自由時間に行える手工芸の準備をしてくれている人がいる。お昼を準備するボランティアがいる。片付けに参加する参加者がいる。

 

何か自分も行動していいのだというゆとりが散りばめられている。

コミュニティカフェについて考える

 さて、先日行ったコミュニティカフェを再訪。

連れ合いと話し込みたい人は小さなテーブル席へ。

誰とでも雑談OKな人は大テーブルへ着くようだ。

今日も大テーブルの席へ友人と座って雑談を始めたら、早速隣の席のおばちゃんが会話に入ってきた。

 

教会*の一角のカフェスペースを使い、支援の必要な(発達障害などを持つ)大人が店員として働くカフェに、地域の(主に)お年寄りが集う。

Adults in needsの就労支援と地域の高齢者支援、対孤独孤立支援が同時に成り立っている。

お客さんはリーズナブルに温かい食事が取れて、会話を楽しみに集まってきている。

この値段設定はチャリティーによる費用か原材料の支援あってのものだろう。

地域社会に生きる人々が、チャリティという観点で、支援する、されるの関係の両方の役目を担っていて、それはもう絡まった網目のようであり、支援する、されるの枠組みを超えることで暖かなコミュニティが存在できる、そんな気がした。

 

*教会はキリスト教徒の多い国で地域社会の中で一つのコミュニティのハブとして機能している。毎週末の礼拝、その後の食事会、平日はコミュニティの活動の場(幼児のプレーグループ、認知症カフェ、趣味の集まり、英会話教室など)としての地域での役割も大きい。

 

ふらっと寄れる行きつけの場所、そこに行けば誰かと他愛なくおしゃべりできるそんな場所がここにもあった。

 

 

 

 

個人に息づくチャリティ精神(カフェのおっちゃんの話)

前回書いたコミュニティカフェで相席したおっちゃんの話を書きたい。

私たちの大テーブルに後から来たおっちゃんが相方に愛想よく話しかけるのでてっきり顔見知りかと思ったら、単に誰にでも話しかける雑談好き。暮らしてみて思うのだけれど、イギリスの男性、雑談上手&楽しんでいる人が日本より圧倒的に多い。

私達と90度の位置に座った彼は、ガッチリした体格ながら、つる禿頭にまん丸お目目の好奇心旺盛な瞳が可愛らしい初老の白人男性だった。

 

長年、マッサージ(muscle massageと言っていたので、いわゆる筋肉をほぐすマッサージだろう)を生業にしていたけど、年齢的に引退したそうだ。だけど、娘がせっかくのスキルを活かした方が良いと提案し、自宅にマッサージ専用の部屋を作り、今は”Healing for Charity”と称して無償でマッサージを提供しお代の代わりにお客さんには支援したい団体に寄付してもらっているという。寄付する余裕がなければ「今日は会えてよかった」ということで構わないんだよと彼は微笑んだ。連れ合いを病で亡くし独り身で、もう生涯過ごしていけるだけのお金はあるからととのことだった。

 

宣伝はしておらず、今までのお客さんや近所の人、そこから口コミでお客が来るという。マッサージ部屋のベッドやタオルなどの備品も全て周りの人が提供してくれたそうだ。(ここにもイギリスのチャリティ精神が垣間見える)

 

なんでこんな身の上話になったのかというと、私が日本人と知って「俺、レイキやってるんだよ、’Healing for Charity'でレイキの手当てをやってんだよ」という話になったからだ。

レイキは海外の方が知名度の高い日本発祥とされるものの一つかと思うのだけど、かろうじて知識があって良かった。。

 

さて、イギリスの地域社会にはチャリティが溢れているけど、今まで、どこかのチャリティ団体に属したり、応援したりというイメージだった。だけど今回おっちゃんの話を聞いて、チャリティの精神って個人の中に息づいていて、個人の思いつきで、団体とか学校とか関係なく個人で行動して成り立つものなんだと知った。

コミュニティカフェに行った話

 教会のスペースを利用して週2回開かれているコミュニティカフェに行った。

友達がそのカフェでクロッシェのサークルをやってるらしいから行こうと誘ってくれたのだ。

 

カフェは、自閉症スペクトラムダウン症などを持つ大人(adluts in need)の就労支援と地域の繋がり作りを目的としているようで、取りまとめるスタッフ2名と共に4人の方達が暖かな雰囲気の中を活き活きと働いていた。

 

温かい飲み物が£1,ランチが£2〜£2.5(サンドイッチかジャケット・ポテト(イギリスの定番ポテト料理)にコールスロー付き)と、普通のカフェの1/3以下の設定で、チャリティでまかなっているからこその値段設定なんだろう。常にお客さんが入っている状態でなかなか盛況だった。地域のお年寄り層がメインで、スタッフさんの顔なじみの方も来られているようだった。

 

私は以前日本で、カフェを併設する福祉作業所で働いたことがあるので、特性のあるスタッフさんのちょっとした仕草がなじみ深く、懐かしかった。例えば、新しい客(私)に食事を運ぶ時の緊張と恥ずかしさの混じったようなちょっとおどおどした様子とか、友達とおしゃべりに夢中になってたら食べ終わる前にお皿を片付けに来ちゃうところとか、唐突に「ボンジュール!」とか外国語が飛び出しちゃうユーモラスなところとか。遠い国に来て、そういうところは世界共通なんだなと妙に納得する。

 

クロッシェを終えて、大テーブルで友達とランチしている時に、後から相席で隣に座った白人のおじちゃんが恐ろしくフレンドリーでおしゃべりだった。彼からイギリスのチャリティ心溢れる話を聞いたので、これは次回に書きたいと思う。

ネットの繋がりも立派なコミュニティ

「WE ARE LONELY,BUT NOT ALONE.〜現代の孤独と持続可能な経済圏としてのコミュニティ〜」という佐渡島庸平さんの本を読んだ。

これからのオンラインコミュニティについて、その意義、立ち上げ、盛り上げ方についてわかりやすい文体で熱く語られていた。

ネットで発信し繋がる時代になって、今まで現実社会ではマイノリティで仲間を見つけにくかった人達が表現できる場を得て、時間、距離を超えて繋がりやすくなったという事実にハッとさせられた。

私もここ数ヶ月、興味のある分野や調べごとで出会ったYoutubeやNoteで、私がすごく自分らしいと感じている性質や深い想いの部分で共感できる、むしろこの人と私は同じことを考えてる(感じている)!こんなにわかってくれる人が指先の検索一つで見つかるなんてという驚きを経験したからだ。

 

私のお気に入りのYoutuberの方はオンラインサロンを主催していて、チャンネルは導入の役割を果たしている。

たくさん上がってる動画を観たうえでなお詳しく知りたい、主催者、他に賛同する人達と繋がりたいと思ってお金を払って入るから、現実には知らない同士でありながら連帯感を持ち繋がりやすいのだろうか。

私はまだ手を出していないけど、気になるなあ。

 

趣味やボランティアなどポジティブで繋がるゆるい繋がりを複数持つことが、毎日を気持ちよく生きるのに大切。いわゆるthird place(サードプレイス)。自宅や学校、職場以外の居心地の良い場所。

オンラインコミュニティもその一つとして機能しているのだと知った。

 

 

地域の中の居場所

 地域のクリスチャン系のチャリティー団体がやっている集いに定期的に顔を出している。

だいたい私は遅れて入っていくのだけれど、輪になって座って話をしていたり聞いていたのを、パッと顔を上げて各々に笑顔で挨拶してくれて、私も空いている席にそっと収まる。

 

午前2時間ほどの時間を公民館の広いスペースのようなところで時間を共にする。温かい紅茶やコーヒーが提供され、「今週良かったことの話」をシェアしあったり、キリスト教に関わるお話や、チャリティ団体が主催している無料の別講座の触りを紹介したりする時間が30〜40分ほど。あとは自由に雑談したりクラフトをして過ごす。ボランティアによって準備される無料のランチが提供され、談笑しながら食べ、みんなで片付けてお開き。

 

来ている人たちは、地域に住む老人だったり、若い人もいる。男性も女性もいる。イギリス人も英語がネイティブではない私のような人もいる。スタッフさん達は気さくで、参加者と共に席について、一人一人にさりげなく目を配り話しかけている。集いや講習の講師をするためのスタッフ研修もしっかり行われているそうだ。正直一見、誰がスタッフでボランティアで参加者なのか分からなかったりする。それくらい同じ目線、気持ちに上下関係がないことがこの会の魅力だと思う。

 

元はバラバラに集まった人達ながら、キリスト教やそれに限らず真面目な話題を全体で共有するためか、それぞれに雑談している時間にも、ありのままの自分を開示しやすいようだ。

今日は、近くに座っていた1人の女性と何人かで雑談していると、彼女が朝にヨガをしているという話から、自分のボディイメージに否定的で、頭の中で何度も自分の姿を責めてしまう状況をなんとかしたくてヨガをしているという話になった。

こうやって話せるのは良いことだねってスタッフの1人が言った。他の参加者も静かに耳を傾けている。シェアしてくれてありがとう、私も時に頭の中の自分を貶める考えに苦労するから、と私も言った。

 

みんながみんな気の合う人達ばかりじゃない。それでも繰り返して参加するみんながそれぞれにここを一つの心の拠り所にしているのだと私は感じている。

私もそうだ。言葉の壁があって静かに会話を聞いているだけの時も、輪の中にいることを認めてもらっていると感じ、心地よく居られる。

受け入れてもらえる場所、話ができる場所、安心して自分でいられる家以外の場所。

 

私が以前連れてきた友人が今日は居ないことに、別の参加者が「彼女はどうした?また来るように声かけなよ」って私に言う。

この集いは参加者が参加者を呼んで大きくなった。

こうやって参加者同士のゆるい心遣いが上手く回る潤滑剤として作用しているのかもしれない。

 

こういう場を作り上げられるって、すごいなって思ってる。

興味深い。