今日も世界の片隅で

しばしの英国暮らし。地域社会とチャリティについて肌感覚で感じたこと。

地域の中の居場所

 地域のクリスチャン系のチャリティー団体がやっている集いに定期的に顔を出している。

だいたい私は遅れて入っていくのだけれど、輪になって座って話をしていたり聞いていたのを、パッと顔を上げて各々に笑顔で挨拶してくれて、私も空いている席にそっと収まる。

 

午前2時間ほどの時間を公民館の広いスペースのようなところで時間を共にする。温かい紅茶やコーヒーが提供され、「今週良かったことの話」をシェアしあったり、キリスト教に関わるお話や、チャリティ団体が主催している無料の別講座の触りを紹介したりする時間が30〜40分ほど。あとは自由に雑談したりクラフトをして過ごす。ボランティアによって準備される無料のランチが提供され、談笑しながら食べ、みんなで片付けてお開き。

 

来ている人たちは、地域に住む老人だったり、若い人もいる。男性も女性もいる。イギリス人も英語がネイティブではない私のような人もいる。スタッフさん達は気さくで、参加者と共に席について、一人一人にさりげなく目を配り話しかけている。集いや講習の講師をするためのスタッフ研修もしっかり行われているそうだ。正直一見、誰がスタッフでボランティアで参加者なのか分からなかったりする。それくらい同じ目線、気持ちに上下関係がないことがこの会の魅力だと思う。

 

元はバラバラに集まった人達ながら、キリスト教やそれに限らず真面目な話題を全体で共有するためか、それぞれに雑談している時間にも、ありのままの自分を開示しやすいようだ。

今日は、近くに座っていた1人の女性と何人かで雑談していると、彼女が朝にヨガをしているという話から、自分のボディイメージに否定的で、頭の中で何度も自分の姿を責めてしまう状況をなんとかしたくてヨガをしているという話になった。

こうやって話せるのは良いことだねってスタッフの1人が言った。他の参加者も静かに耳を傾けている。シェアしてくれてありがとう、私も時に頭の中の自分を貶める考えに苦労するから、と私も言った。

 

みんながみんな気の合う人達ばかりじゃない。それでも繰り返して参加するみんながそれぞれにここを一つの心の拠り所にしているのだと私は感じている。

私もそうだ。言葉の壁があって静かに会話を聞いているだけの時も、輪の中にいることを認めてもらっていると感じ、心地よく居られる。

受け入れてもらえる場所、話ができる場所、安心して自分でいられる家以外の場所。

 

私が以前連れてきた友人が今日は居ないことに、別の参加者が「彼女はどうした?また来るように声かけなよ」って私に言う。

この集いは参加者が参加者を呼んで大きくなった。

こうやって参加者同士のゆるい心遣いが上手く回る潤滑剤として作用しているのかもしれない。

 

こういう場を作り上げられるって、すごいなって思ってる。

興味深い。